マイセンのミニ知識

マイセン創業と歴史


17世紀のドイツとアウグスト一世

 17世紀ドイツ、ザクセン選帝侯アウグスト一世は東洋磁器の屈指の蒐集家で、アウグスト軍に属する兵士600人とプロイセンの王が所有していた中国の壷151個を交換したという逸話も伝わっています。

中世ヨーロッパの交易品

 中国磁器(景徳鎮)は3世紀にシルクロード、7世紀には海路を通じて中東や西欧に輸出され、16世紀〜18世紀には外国との交易品として磁器は大きな役割を果たし、「白い金」と呼ばれ西欧の王侯貴族に熱狂的に取引されていました。そして中国の明末清初の混乱で磁器の製造が滞り、その台頭として日本の磁器、特に有田・伊万里焼や柿右衛門がヨーロッパので高い評価を受け、その中でもアウグスト一世は日本宮という磁器宮殿を計画(未完成)してしまうほどの蒐集家でした。

べドガーとチルンハウス伯爵

 16世紀末、西欧諸国は競って磁器を自国で開発・生産できないものか研究していました。そんな中、プロイセンから追放されていた錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーを(招聘とも言われていますが・・・結果的に)拘束・監禁して、アウグスト一世も城を蒐集した磁器で飾るだけでなく磁器製造を研究させました。

 このべドガーという方、生まれはザクセンに近いテューリンゲン州シュライツの出身で、若いくしてベルリン(当時のプロイセン国)に移ります。プロイセンで自分は金を作れると風潮し、この噂を聞きつけ期待ていたプロイセン王フリードリヒ1世は、それが実現不可能と判断すると、べドガーをベルリンから追放します。アウグスト一世は金の製造の秘密を明らかにするため錬金術師を投獄(1701年)してしまいます。この時ベドガーは19歳。1703年には幽閉生活に耐えられなくなり城を脱出しボヘミアまで逃亡しますが、アウグスト1世は軍隊を派遣してまでベドガーを探し、ついには逮捕・送還されてしまいました。
 ベドガーは国王の「金の製造」という不可能な要求をなんとかかわすため、当時「白い金」と呼ばれた白磁に目を付け、陶工というより錬金術師として白磁を研究しました。白磁の研究のために監督官に就任した物理学者で数学者・哲学者でもあったエーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス伯爵が若いべドガーにアドバイスや叡智を享受し、その結果1708年本当に白磁の秘密を発見します。1709年彼は白磁を完全に解明することに成功します。
 実は、チルンハウス伯爵は1704年にはライプニッツの秘書に自作の磁器を披露したといわれ、この技術をアウグスト1世に売り込み、磁器工房の創設を持ちかけますが、アウグスト1世は提案を退てしまします。しかし監督官となり1707年に磁器焼成技術提供の代価として2561ターラー請求しますが、アウグスト1世は工房が実働を開始するまで支払いを延期。翌年1708年チルンハウスは死去してしまい、この支払いを受けることが出来なかったそうです。チルンハウス伯爵の研究を継承したベトガーはチルンハウス伯爵の去った同年、磁器焼成技術を完成させることができたのです。

白磁の解明・製造に成功

 西欧では長年、卵の殻などを用いた製造方法でなんとか白磁を作れないかと研究されてきましたが、ベドガーとチルンハウス伯爵は従来の製法を無視し、カオリンという成分の入った土を使用し、ヨーロッパの炉で一般的に焼かれていた温度よりさらに高い温度で焼きました。カオリンと長石類を素地の主成分にすると長石が焼成中に素地と融合して表面が半透明に輝く状態に焼あがることを発見したのです。そのために1350度〜1400度の焼成温度が必要ということも解明しました。また、現在は近くのザイリッツで自社鉱山(世界最小の鉱山といわれる)カオリンを含む土を採掘しているそうです。
 この製法は当時ヨーロッパ諸国に知られることのない大発見となり、この影響で以後ドレスデンが西欧での技術と芸術の一都市として発展していきました。

マイセン創業と年譜

 1710年「王立ザクセン磁器工場」設立。製造の独占権が与えられ庇護されました。磁器工場は製造の厳重な機密保持を目的にドレスデンより約20km下流域にあるエルベ川沿いのマイセン地方・アルブレヒト城に移されました。また同年に「ザクセンでは今や東インドと同等の磁器の製造が可能になった」という布告が出されたそうです。

 ベドガーは白磁製造成功の後、直ぐに染付を解明するよう命じられます。しかし機密漏洩を懸念して幽閉は解かれることなく軟禁状態となり、そのストレスからか酒浸りで身体を壊し、1719年37歳で亡くなってしまいました。

 1717年、染付磁器の焼成に成功。べドガーとチルンハウス伯爵、その他の優れた職人たちの叡智と技術の結晶によって染付の歴史が始まります。

 1719年、ドレスデンにツヴィンガー宮殿を建立。膨大な磁器のコレクションを収蔵します。その中には日本の古伊万里1000点、柿右衛門200点もあったそうです。その宮殿はマイセン磁器の象徴と言われ、同年日本宮殿のために古伊万里などの日本磁器を特注しているそうです。

 1720年、ウィーンより絵付師ヘロルトが招請され、オレンジ色を主体とした中国風の絵を描きます。アウグスト1世が熱望した柿右衛門の色磁器の模写も行なっていたそうです。

 1722年、アウグスト一世の紋章である双剣をマイセンの窯印として使用が認められます。※シュヴェルトラーと呼ばれる専門絵師だけが窯印を描くことが許されているそうです。

 1724年、ヘロルトは宮廷御用達絵付師に任命されます。また磁器専用の絵の具の開発に成功し、シノワズリー(中国嗜好)の絵柄や西欧風景を多く描きました。

 1727年、ドレスデンで活躍していた彫刻家のキルヒナーが主任型師となります。

 1731年、ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーが成型師として招かれます。この当時よりマイスターの枠を超えて彫刻家やアーティストたちの人材を求めたマイセンの精神が創造性をなにより大事に現代まで受け継がれています。

 1733年、アウグスト1世が亡くなります。これは庇護がなくなることを意味しました。

 1736年、アウグスト1世の死を切っ掛けにケンドラーは重厚なバロック様式から優美なロココ様式へと転換します。アウグスト1世はポーランド・リトアニアの国王就任や領地拡大、絶対王政回帰の野望を絶えず持ち続け、その手本にしていたのがヴェネチア文化やフランスのヴェルサイユ宮殿と言われています。そのためアウグスト1世は権力を誇示するための道具として磁器も利用し、大作を工場へ多く注文していました。しかし時代はバロックからロココ様式へと趣向が変わり、王の死もあって、小物などの制作が可能になったのです。このロココ様式のワトー画や磁器人形は、愛くるしい表情や仕草が白磁の麗しい質感との相乗効果で爆発的人気を博します。

 1739年、絵付師クレッチマーによって「ブルー・オニオン」が世に出ます。中国の呉須を使用した技術を応用し、コバルトブルーが高貴な風情を醸し出しています。ザクロだった模様はなぜかオニオンと解釈され、ブルー・オニオンと呼ばれるようになったそうです。

 1745年、プロイセンとの戦争に敗れ、収蔵されていた大量の磁器が略奪され、マイセンの衰退期を迎えます。またこのことが切掛けでマイセンの機密は徐々に流出することとなるのです。

 1764年、フランスの彫刻家アシエが成型師に任命されます。戦争被害の大きかったマイセンは復興に向かい、技術・芸術面でも最高水準を保ち続けることになります。
 同年、「王立マイセン養成学校」を設立し、その後数百年に渡る技術と経験だけでなく新しい考察を絶えず取り入れた、実践的で理論的な教育が行われるようになるそうです。才能ある若者が過去と同じレベルのマイスターを目指し、特に自然描写に重点がおかれ、絵画技法など技術の習得と継承を担って訓練されているそうです。

 1864年、今日に至るトリービッシュタールに工場移転します。

 1875年、双剣が商標登録され保護されるようになります。

 1946年、第二次世界大戦の後、旧ソ連が有限会社の一部として管理します。

 1950年、旧ソ連はドイツ民主共和国にマイセンを返還し、国立マイセン磁器製作所として改めて出発します。

現代のマイセン

 1960年、モーリッツブルグ内に「芸術の発展を目指すグループ」のアトリエが作られ、時の有名アーティストが集まります。
 ・リーダーのハインツ・ヴェルナー/絵付壁面装飾の分野に大きな影響を与えます。代表作はアラビアンナイト、サマーナイト・ドリーム などです。
 ・ルードヴィッヒ・ツェプナー/フォームの名作ケンドナーのノイアー・アウシュニットと双璧と称されるグローサー・アウシュニットを発明します。ケンドラー以来のフォームの巨匠といわれ、代表作はアラビアンナイト、サマーナイト・ドリームなどです。
 ・ペーター・シュトラング/造形塑像の巨匠です。彼の人形は生命力に溢れた表現で人気があります。
 ・フォルクマール・ブレッシュナイダー/絵付けで全く新しい花の絵のデザインが斬新です。
 ・ルディ・シュトレ/1966年メンバー入りします。グラフィックデザインやリトグラフを学び、花の絵付を勉強されたそうです。

 1975年、「芸術の発展を目指すグループ」は国家功労賞を受賞し、国内外で高い評価を得ます。
 ・アンドレアス・ヘンテル/並みの戯れ、ユーゲント、青い花、ベゴニアなどユニカート制作に注力します。

 

現代マイセンのテーマは「生きる喜びの表現」

 磁器は平和を表現し、人の心に安らぎをもたらすもの…これはヴェルナー教授の思想だそうです。300年以上の歴史の中に強王の野望や錬金術師や天才と職人たちのたゆまぬ努力、また度重なる戦争を経て今日のマイセン製品を毎日の生活の中で手にすることができる喜び。正にマイセンのテーマ通り生きる喜びであり、マイセンのお品物だけでなく関わる全ての人々へ敬服することが出来る、数少ないブランドです。
 また、マイセン磁器は創業当初よりアウグスト1世の古伊万里や柿右衛門などにみる日本趣向が強いため、花鳥風月に見られる私たち日本人の生活にも大変なじみやすく、今尚多くの日本人に愛され続けています。

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