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スージー・クーパー/Susie Cooper ミニ知識

◆スージークーパーの魅力


アールデコ期のシャープさと対照的に女性らしい柔らかなカラーリングとデザインを併せ持つ製品。両者が共存し成立している不思議な世界観。それがスージークーパーの製品を初めて見た時の印象でした。次第にこのシャープさと柔らかさが病みつきとなり、気づけば我が家の食器棚に、いつのまにか目が離せないような存在感を放って鎮座しています。
 スージークーパーの製品はスージーの生きた時代背景がデザインにも大きく影響し、同じ時代を生きた人々だけでなく現代ではアンティーク品として高い人気を誇っています。
 産業革命と二つの大戦に挟まれた激動の時代にも関わらず、彼女の創り出す製品は温かさと柔らかさを併せ持っており、戦争によって荒廃した時代だからこそ人々が求めたデザインだったのかもしれません。当時は最先端のデザインは現代では肩の力を抜いたようなノスタルジックに感じるデザインですが、細かな描写を見ていくうちに彼女のセンスの高さと彼女の持つ世界観に引き込まれていきます。
 まずは彼女の生きた時代から紐解いていきましょう。

◆スージークーパーの生い立ち


1902年10月29日 イギリス最大の陶器工場のある、スタッフォードシャーにて、実業家の父ジョンと母メアリー・アンの7人目の末っ子として誕生。本名はスーザン・ベラ・クーパー。父ジョンは雑貨、食料品を扱う店舗を経営する一方、地方裁判官という地元の名士で富裕な家庭に育ち、スージーは幼いころよりお絵かきと読書が好きでした。

1914年(11歳)第一次世界大戦がはじまり、同年父ジョンが53歳の若さで急死してしまいます。兄達が父の事業を引き継ぎましたが、兵役での人手不足と不況の中、事業は苦しく裕福な生活も遠いものとなり、スージーは15歳の時に学校を辞めざるおえず、家業を手伝う事になります。

1918年(16歳)第一次世界大戦が終結し社会も落ち着きを取り戻したころ、母親の勧めで、地元にあるバーズレム・アートスクールの夜間部に入学します。週に2回ほどの授業にも関わらず、このときの授業での自然観察が後の彼女の作品に大きな影響を与えました。スージーは田舎道や草原を観察しながら歩くのが大好きで、花の咲く季節だけでなく寒く草花にも霜の降りる季節にも自然と触れ合い、スケッチしました。現在でも人気のグレンミストに見られる涼しげで可憐なコスモスなどは、草花の葉脈まで細かに描かれたデザインは、この時に培われたデッサン力と自然への深い愛情を感じられます。
家庭には負担をかけたくないと考えたスージーは、17歳の時に奨学金を得ることができ、昼間部に転学し、授業時間も大幅に増えました。通っていた学校は場所柄陶器産業と関りが深く、陶器デザイナーやペインターを目指す女生徒が多くいましたが、スージーは陶器デザイナーではなくファッションデデザイナーを目指していました。戦争の影響で女性も社会に進出しファッションデザインが大きく変動していく時代で、「シャネル・スーツ」を代表とするファンション業界の一大変革期でした。
スージーはファッションデザイナーを志し王立芸術学院で奨学金を得るために学長の紹介で、1922年 A.E.Grey & Co.Ltd.(陶器のグレイ社)にペインターとして入社しました。しかし、スージーはグレイ社で陶器デザインのおもしろさに目覚め、ファッションデザイナーを断念し、ペインターの修行に励みます。

そして社長の厚い信頼を得て1922年からペインターではなくアシスタントデザイナーとして大抜擢されます。グレイ社長から様々な仕事を受け、1923年秋に行われたヴィクトリア&アルバート博物館での英国産業芸術学会のイギリス陶器部門の展示会カタログで、スージークーパーのデザインが認められ、社内に留まることなく公に名前が知られるようになりました。このころよりグレイ社での陶器の裏にスージーの名前を描かれるようにもなります。当時の人気女流デザイナー、クラリ ス・クリフなどが自分の作品にサインを入れはじめ、彼女もバックスタンプにサインを入れ始めます。当初は彼女のイニシャル「S.C」または「S.V.C」と入っているものが殆どで、まだ名前は入っていません。当時のスージーの作品は大胆で鮮やかな色調のデザインが多く、明らかにクラリス・クリフの影響もみられ、また、当時の先端デザインのアールデコやジャポニズムなど流行をうまく取り入れるだけでなく、スージーらしいモチーフや味に変えてしまう、豊かな才能が際立っています。 着実にグレイ社で実績を積み、陶磁器デザインへの熱意と妥協したくない思いががさらに増し、公私ともに強力なバックアップであったグレイ社長の元を去る日が突然やってきます。

1929年 10月24日、アメリカウォール街の株価の大暴落から世界大恐慌が起こります。その4日後の28日にスージーは27歳の誕生日を迎え、グレイ社を退社するのです。
 ジョージ・ストリートにお店を借り、陶器作家スージークーパーとして独立しました。世界恐慌の中でイギリス陶器業界も先の見えない状況の中、彼女は信念をもって乗り越えます。一流の窯焼き職人やグレイ社のペインター、アートスクール時代の後輩の見習ペインター数人を引き抜き、翌年1930年春には10人ほどの小さな製作所、“Susie Cooper Pottery”を設立しました。
創業当初は小口生産で小規模販売店に卸していたため、彼女の好きなデザインや当時流行のデザインをを多様に取入れ、生産・販売することができました。

 スージーは自分が一流であるという自負と、自分だけでなく製作所のスタッフにも一流の仕事を求めました。作品には「高級なハンドペインティング」を第一条件とし、このことから批評家からも芸術性を認められ高い評価を得ていくことになります。
 そして製品は中産階級をターゲット「実用性を兼ね備えた上品さと芸術家としての手腕」を広告としてディナーセットはから子ども用マグカップまで多様化して販売し大成功を収めます。

 大不況時代にもかかわらず、ロマンティックなデザインや生活のゆとりを感じるスージーの製品は、若い女性や主婦層に熱狂的な支持を集め、日々の生活や日常の食卓空間が大切な時間であることを実感させてくれる製品。だからこそ着実に人々の生活の身近な存在として広まっていきました。
 一流の製品を手ごろな値段での販売を目指した彼女の製品は当時でも決して安いものではなく、クレヨンラインデディナーセットで当時6.12ポンド。今の価値で約4万円です。また当時のロイヤルファミリー、特にジョージ5世の妃メアリー女王が購入、愛用したことを切っ掛けに一躍「高級品」と認識されるようになりました。

1931年(29歳)バースレムのCrown Works内に会社を移転。事業拡大。

1932年(30歳)リーピングデアをバックスタンプに使い始めます。

1933年(31歳)英国制作品評会に出品。彼女独特のデザインのチュリーンは、ふたをひっくり返してテーブルの上に置くことも出来、保管するときはふたをひっくり返してチュリーンの中にふたが収まり重ねることができるという実用性があり、当時大変な話題になりました。
 同年10月、ロンドンにショールームをオープン。ノルウェーや南アフリカに輸出を開始。その後、アメリカにも輸出。エールフランス、インペリアル航空(現在のブリティッシュエアーウェイズ)のロンドン-パリ間でスージーの食器を使用。一躍ヨーロッパでも知られるようになりました。
 また、アメリカ、カナダ、オーストラリアへと広がっていきました。34年代にはアメリカの4つの工場でスージーのデザインがコピーされるなど、アメリカでの人気の高さが伺えます。

1938年(36歳)4月24日 建築家のCecil barker(セシル・ベーカー)氏と結婚。

1939年(37歳)第二次世界大戦勃発。戦争の為職人が減ってしまい、陶磁器産業全体が大打撃を受けます。また、下請け会社など陶器関連会社も政策によって生産量などが制限されるようになります。

1940年(38歳)女性初のRoyal Designer for Industryになり不動の地位と名誉を手に入れます。

1941年 戦争によりロンドンのショールームも破壊され、スタッフも戦地に赴き、失うことになります。

1942年には原因不明の火事で工場が全焼。
陶器製造を一時中断せざるを得ない厳しい状況になります。

1943年(41歳)長男Timothy(ティモシー)が誕生。子育てと家庭生活に没頭し、普通の主婦と同じ生活に身を置くことによって平凡な生活の素晴らしさを実感します。

1945年 戦争が終結し、政府の政策として輸出用陶器だけを製造し、海外で徐々に売り上げが伸びていきます。また、戦争の被害でスージーの原画のリトグラフ(石版画)が焼失したため、かつてのデザインを転写することができず、一時的に手書きになったデザインや新しいデザインが登場します。

1946年 ヴィクトリア&アルバート博物館で開催された展覧会では、スージーはデザインの選考委員に選出され、自身も3点展示します。同年に工場再建することができました。

1950年(48歳)陶器の製造からより強度のあるボーンチャイナの製造に着目し「ジェイソン」を買収。Susie Cooper China Ltd.設立。

1957年(55歳)3月、2度目の火災によりSusie Cooper Pottryは倉庫まで焼失し、リトグラフも失われ、やむを得ずハンドペイントに切り替え、この難を乗り切ります。この火災により倒産寸前まで追い込まれることになりますが同年12月にRH&SLブラント社と合併して事業拡大。更に翌年1958年には火事で大災害にあったウッド&サンズ社を買収し以前の勢いを取り戻します。また、ボーンチャイナを中心とした生産にシフトします。

1962年(60歳)最愛の一人息子ティモシーが19歳の若さで母スージーの会社に入社し、親子で仕事に携わります。

1972年(70歳)イギリス陶磁器産業より功績を認められ、Order of the British Empire(大英帝国勲位)を授与されました。

1979年(77歳)夫、Cecil Barker氏永眠。愛する夫を失い、深い悲しみから4年もの間創作活動が出来ず、一時は引退も考えるほどでした。

1987年(86歳)Royal College of Art(王立芸術学院)より最高名誉の博士号を授与されます。若きスージーの憧れていた学校からの博士号の授与でした。またウエッジウッドとデザイナー契約を結び、現在でも人気シリーズ「グレンミスト」をウェッジウッドで購入できます。

1988年(87歳)ティモシーとイギリス・マン島に移住し、フリーランスの食器デザイナーとして仕事を続けます。

1995年(92歳)7月28日スージークーパー永眠。同年日本で「スージー・クーパーのある暮らし」が販売され、この本が大ブレイクし瞬く間に日本でのスージークーパーの人気が急上昇したのです。 英国ではヴィンテージ雑貨扱いだったスージークーパー製品が再評価され、マーケットで話題となり価格が一気に高騰しました。 この瞬間からスージークーパーの作品は「ヴィンテージ雑貨」から「アンティーク」扱いになりました。スージー・クーパーの価値を押し上げたのは日本のファンであり、マーケットでは非常に特殊なケースとして更に話題となりました。現在でもスージークーパーの作品は根強く、製品の取り扱いが年々少なくなっていることから希少価値の高さがうかがえます。

 スージークーパーの製品は、波乱に満ちた時代にも関わらず、女性らしい柔らかな色調やデザイン、洗練されたアールデコデザインの他にも、女性としての柔軟さや強さ、人生の素晴らしさを製品を通して感じさせてくれる逸品です。

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