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オールドノリタケのミニ知識

19世紀末ごろから第二次世界大戦前後頃まで、森村組と日本陶器(ノリタケの前進)で作られたものを指します。花瓶、壷、陶製人形、置物、陶製化粧セット、テーブルウェア・ディナーウェアなどで芸術的な絵付けや繊細な細工が特徴です。主にアメリカやヨーロッパに輸出され、次第に日本国内にも欧米様式の商品を海軍省、宮内省、高級ホテルやレストランに販売されました。当時でも最高クラスの製品を誇り、日本の花鳥画の技法とヨーロッパデザインと古今東西をミックスした独特なデザインで、現在でもコレクターの間で高い人気があります。


バックスタンプ

 創業当時から1950年代まで使用されたバックスタンプは明治時代ロンドンで登録した裏印を採用しています。異国での考え方や生活の異なる文化の中で商売する上で、さまざまな困難に直面するだろうということから、困難の「困」をとり、槍でそれらを打ち破り乗り越えていこうとの決意が表現されている。また全て円満にいくようにと、四角縁を丸くしたと伝えられています。バックスタンプの種類は大変多く存在し、創業から今日まで少なくとも120以上の種類があり、オールドノリタケだけで約半数を占めます。輸出先やシリーズに応じてバックスタンプを変えているのが特徴です。

 創業当時は主にアメリカに向けて製造され、次第にヨーロッパにも輸出先を増やしています。日本古来の陶磁器の製法ではなく、ヨーロッパで確立された陶磁器の製法を採用しましたが、形の均一なディナーセットを製造するに大変な困難を乗り越えて製造に至ったています。その経緯を見てもバックスタンプのロゴマークの示す通り明治維新から現在に至る時代の混乱期を常に打ち破り、乗り越えてきた森村組を象徴するマークです。


デザインの特徴は大きく分けて2つあります

創業時から1935年頃までにアメリカとヨーロッパ向けに製造輸出されたアールヌーボー中心とした西洋画風のデザインと景徳鎮や日本画風のデザイン。また、古今東西をミックスしたデザインも見られ、装飾が緻密で繊細。
1920年代から流行したアールデコデザイン。


ノリタケの創業と森村市左衛門

 1904年(明治37年)日本陶器合名会社ノリタケを愛知県、現在の名古屋市西区則武新町に設立。日本近代陶磁器産業が始まりました。商標も地名からつけています。

 創業者は江戸時代末期馬具商だった六代森村市左衛門と言う方で、当時ペリー来航以来の日本動乱期に国力の衰退を肌で感じ憂慮していました。森村市左衛門は師とする福沢諭吉から助言を受け、国力の衰退を防ぐには輸出貿易で外貨を稼ぐことが最も効果的であるといわれ、森村市左衛門は輸出貿易に着手します。弟の豊(とよ)が1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福沢諭吉の支援を受け、佐藤百太郎の企画した「米国商法実習生」の一人に選出されてニューヨークに行きます。豊は現地ですでに起業していた佐藤百太郎とともに日の出商会を設立。兄、市左衛門と日本で骨董品や陶器・提灯、陶磁器や漆器、印籠、屏風、掛軸、団扇などの伝統的な日本の雑貨などを仕入れてニューヨークに送り、販売が好調なことを受け、森村組のニューヨーク法人、森村ブラザーズ(Morimura Bros. & Company)を単独で開業しました。豊と同じ船で渡米した仲間の一人である新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)を設立。個々の商品当たりの利幅が大きい小売業から大量取引が可能な卸売業に転換し、日用食器を取り扱うようになります。当時アメリカは南北戦争、西部開拓、植民地開拓などの時代的背景と、1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、陶磁器の需要が急激に伸びる時代でした。

 1885年より受注生産と価格帯を下げる事で在庫管理の効率化に成功し、1889年には売上高は25万ドルに達しました。さらなる受注生産量の増加に伴い1893年に陶磁器原料の産地である名古屋に専属窯を設け、翌年、かつて東京・京都に分散して発注していた絵付け(上絵付)も名古屋に集約して絵付工場を設立。日本陶器合名会社(現在のノリタケカンパニーリミテド)を1904年に設立に至るのです。

 1906年推定売上げが約500万ドルと躍進し、現地の経営だけでなく日本での産業として拡大する中、それまでの主力商品だった壺やコーヒーカップなど一点物の陶磁器以外にも、ディナーセットの生産を目指します。また開発コスト負担の問題などから1909年に組織を見直し、担当を分割し、日本陶器は生地を生産。森村組は絵付け。森村ブラザーズが営業・販売としました。

 ディナーセットに用いる白色硬質磁器の開発は困難を極めていました。1910年に製作責任者に就いた江副孫右衛門の尽力などによって1914年に完成します。和食器文化にみられる一つ一つ形が違うことに個性を見出す和の文化とは異なり、洋食器は均一性が何より重要で美を見出す文化のため、真っ直ぐな底のディナー皿を製造するのに苦心していました。そんな中、製造の研究員がフランスから取り寄せた見本皿を割ってしまいます。その割れた断面から皿の中央部分が分厚く作ってあることに気付き、製造過程での均一性を保つ方法を確立できるようになったのです。そして1921年には対米輸出が6万セットを超える人気商品となりました。従来からの一点物の販売も好調で、1914年には日本の陶磁器輸出に占める日本陶器社製品の割合は40%以上となり、その後シェアは低下しますが輸出額は数倍に増え、1921年には輸出額が1,000万円を超えます。

 その他、硬質磁器の製造技術を活かして1905年より高圧がいしの製造を始め、芝浦製作所(現・東芝)に納入。1919年には日本碍子株式会社として独立。さらに、衛生陶器について1912年からヨーロッパにも研究員を出向させ、1917年には東洋陶器株式会社(現・TOTO)が設立されます。世界に誇る日本の高級食器の代表的存在の大倉陶園は森村市左衛門の娘婿の大倉孫兵衛、大倉和親親子にて設立されました。現在では世界最大のセラミックス集団『森村グループ』を形成しています。

余談ですが・・・他にも森村市左衛門の功績は大きく、個人的にリスペクトされた部分を抜粋しました。

1910年自邸内に南高輪尋常小学校・同幼稚園(現・森村学園)を開設。
1915年男爵・従五位に叙せられる。
1917年日本陶器株式会社、森村商事を創立。
  衛生陶器部門を分離し東洋陶器(現・TOTO)を設立。
1918年森村組を再改組し、持株会社とする。
1919年がいし部門を分離し日本碍子を設立。また大倉陶園を設立。79歳で死去。

正に日本が誇る陶磁器と近代陶磁器産業を象徴するブランドです。お使いの予定のないオールドノリタケ製品がございましたら、当店にお問合せくださいませ。

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